2019年09月30日

クロアチアの記憶「ザグレブ芸術大学」

 ザグレブ芸大には全国からたくさんの生徒が受験し、狭き門を突破するのはほんの一握りです。
 私は、1988年秋から研究生として芸大に通い始めました。まず油絵科のヨルダン教授につき、
間もなく彫刻科のスィキリッツア教授の教室に移りました。
 芸大の日課は朝のデッサン(3時間)から始まり、午後になるとそれぞれの制作室に向かいます。
 私のクラスメイトは3年の男子3名でした。

芸大のクラスメイトと一緒に
2019101.jpg

posted by ラツコヴィッチ・アート・ジャパン at 16:13| クロアチア

クロアチアの記憶「語学コース4」

 翌年の2月から中級の授業が始まりましたが、内容も進み方も単語数も初級とは比べ物に
ならぬほどレベルが高く、私は1週間で音を上げてしまいました。
 大学からの帰り道、こみ上げる涙をこらえながら中級をやめる決心をしました。
 そんな私を救ってくれたのは、クロアチア語の教授とザグレブ在住の日本人女性Yさんでした。
 特にYさんは、月曜から金曜まで毎日私の予習に付き合い励まし続けてくれました。
 卒業試験では、自分が最も得意だった課をくじで引き当て、その時の教授の「やったね。」と
いう笑顔は忘れられません。

posted by ラツコヴィッチ・アート・ジャパン at 16:02| クロアチア

クロアチアの記憶「語学コース3」

 毎日100余りの新出単語を調べ「テープの内容は授業の前に暗記する」というノルマと
格闘しながら、やっと初級をクリアした頃には、何とか電話の相手が言うことが聞き取れる
ようになりました。
 覚えたての言葉を駆使してラツコヴィッチ氏のアトリエに電話をしたのは、ちょうど
その頃でした。

posted by ラツコヴィッチ・アート・ジャパン at 15:57| クロアチア

クロアチアの記憶「語学コース2」

 授業は午後だったのですが、息子たちがそれぞれ小学校と幼稚園に行っている間集中して勉強することができました。
 小学4年までは基本的に半日授業で、隔週で午前と午後に通学していましたが、両親の仕事の関係でランチを共にできない家庭や、私のような留学生の親を持つ子供たちは長い時間学校にいることができました。10時のおやつや給食もあったので助かりました。
 語学の授業が終わると、若い留学生たちに混じってトラムに乗り込み、乗り換えのバス停に向かいます。
 トラムを待つ間、その日の授業で覚えたフレーズを使って会話するのが日課となり、1つの言葉を通して様々な国の人と会話が出来るという喜びを味わいました。

語学コースの仲間とミマラ美術館の前で
2019102.jpg

posted by ラツコヴィッチ・アート・ジャパン at 09:35| クロアチア

2019年09月28日

クロアチアの記憶「ザグレブ大学哲学部・語学コース」

 息子の学校生活が軌道に乗り始めた頃、私の語学の授業が始まりました。
 世界各地から来た留学生が、学部に入る資格を取るために1年間の語学コースに入ります。
 私のクラスは18歳から25歳まで十数名が参加していて、34歳の私が最年長でした。
 祖父母がクロアチア人だという女性はすでに言葉が話せましたし、ポーランドからきていた牧師さんは同じスラブ語圏ということで、覚えも早く発音も完璧でした。
 そんな中で、英語もままならず暗記力にも自信のない私は劣等生の代表でした。
 それでも英語を介しての授業は最初だけで,全てのやり取りがクロアチア語だったのが幸いして何とか授業についていけました。

posted by ラツコヴィッチ・アート・ジャパン at 06:30| クロアチア

2019年09月22日

クロアチアの記憶「ホットワイン」

 ホットワインといえば、ユーゴ内戦の最中陸路でザグレブに戻る途中で立ち寄ったウイーンで飲んだのを思い出しますが、留学中にラツコヴィッチ氏が作ってくれた甘くて温かいホットワインは格別でした。
 普段お酒を全く口にしないラツコヴィッチ氏でしたが、事前に材料を用意し「今日は美味しい飲み物をご馳走するよ。」と言って台所で何やらコトコトと温めてくれているのを、ワクワクしながら待っていたのを覚えています。
 香り豊かで素朴なあの味を、今年こそ再現してみようと思います。

posted by ラツコヴィッチ・アート・ジャパン at 10:43| クロアチア

2019年09月21日

クロアチアの記憶「庶民のクリスマス」

 当時、ザグレブではクリスマスが近づいても、街に音楽が流れることはほとんどありませんでした。日本と比べてとても質素な印象をうけましたが、国営デパートや市内の商店ではオーナメントのコーナーが開設されたので、電飾選びを楽しむことが出来ました。
 「クリスマスのミサに参列したい」という夢がかなったのはそれから間もなくのことでした。
 24日の晩、大家さんに連れられて向かったのは小さな教会でした。ミサの神聖な雰囲気に包まれ、天空に舞う天使たちの姿に心洗われる思いがしたのを覚えています。 
 12時を回った時、参列者たちは別室に用意されたラキア(手作りのプラムブランデー)で乾杯し、持ち寄ったお菓子を囲んでスレータン・ボージッチ(メリークリスマス)と声を掛け合っていました。
posted by ラツコヴィッチ・アート・ジャパン at 14:18| クロアチア

クロアチアの記憶「クリスマス」

 クリスマスマ真近のある日、息子のクラスメイトのお父さんから「モミの木を買いに行きませんか。」と声がかかりました。
 2・3時間ほどたった頃、背丈ほどもあるモミの木を抱えた夫が帰宅しました。
 支えとなる金属の道具のおかげでモミの木は真っすぐにしっかりと立ち、居間は新鮮な香りでいっぱいになりました。
 一軒家で暮らす人たちの中には、根のあるものを購入し新年まで飾った後に、自宅の庭に植えて育てることもあるようです。
            
posted by ラツコヴィッチ・アート・ジャパン at 10:08| クロアチア

2019年09月15日

クロアチアの記憶「1年で1番寒い9月」

 私達が住むことになった集合住宅は、地域集中暖房でしたが9月中は機能せず、寒い朝でもヒーターはひんやりしていました。
 ところが10月になったとたんに室内の温度が上がり、セーターを脱ぎTシャツ姿になりました。
 旧市街に上ると見える、ひときわ高い赤と白の煙突が集中暖房の施設の目印です。

posted by ラツコヴィッチ・アート・ジャパン at 22:44| クロアチア

2019年09月14日

クロアチアの記憶「現地校に通う息子」

 ラーデ・コンチャル小学校には1年生から8年生までが学んでいます。息子は1年生に転入しお二人の担任の先生と出会いました。国語担当の先生と算数担当の先生です。
 初めて登校した日、夫が迎えに行くと息子はグラウンドでクラスメイトとバスケットボールをして遊んでいたそうです。
 帰宅後、息子は初めて覚えたクロアチア語を私に教えてくれました。
それは「ロプタ・lopta」ボールです。
 10月に入ると早朝のザグレブには霧が立ち込めるようになり、その中を歩いて登校する息子をベランダから見送るのが日課となりました。

12019クロアチアの記憶.jpg
アパートの大家さんの息子さんと一緒に子供部屋で

22019クロアチアの記憶.jpg
通学カバンを手にする長男




posted by ラツコヴィッチ・アート・ジャパン at 12:28| クロアチア