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クロアチアのナイーヴ・アート画家 ラツコヴィッチの世界
クロアチアのナイーヴ・アート画家、イワン・ラツコヴィッチ氏(Ivan Lackovic 1932-2004)を紹介するラツコヴィッチ・アート・ジャパンのブログです。
2013年7月から8月までクロアチア便りから始まり、ラツコヴィッチ展やクロアチアのこと、日々のことなどを書いています。
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2023年03月30日
『イワン・ラツコヴィッチのファンタジア』展
3月28日(火)より『イワン・ラツコヴィッチのファンタジア』展が、豊島区立熊谷守一美術館3Fギャラリーで始まりました。
コロナ禍の延期を経て4年ぶりの熊谷守一美術館での展覧会です。
カラーの展覧会記事が新聞に掲載されたこともあり、初めて来館されラツコヴィッチ作品を熱心に見てくださる方が何人もいらっしゃいます。
posted by ラツコヴィッチ・アート・ジャパン at 23:33|
ラツコヴィッチ作品
2019年10月22日
クロアチアの記憶「冬のドーラッツ市場@」
ザグレブ観光で人気の場所と言えば、まずドーラツ市場があげられます。四季を通じて新鮮な野菜や果物が安価で手に入り、お土産品も豊富なので旅行中も2・3度必ず訪れます。
留学した年の秋には、地元産の皮ごと食べられるブドウに舌鼓を打ち、日本から輸入されたの大きな柿(渋柿)に驚きました。柿は柔らかくなるまで待ち、ゼリー状になったら食べ頃だとされ結構人気でした。「日本のりんご」と名付けられていたのも興味深かったです。
11月に入り気温が急に下がると市場の出店は減り、市民は地下の売り場に向かいます。
生鮮食品の値段は少し高めですが、1年中楽しめる肉やハム・チーズと共にゆったりと買い物を楽しむことが出来ます。
覚えたてのクロアチア語を試せるのも嬉しく、売り子さんに褒めてもらうと益々やる気が出たのを覚えています。
posted by ラツコヴィッチ・アート・ジャパン at 19:38|
クロアチア
2019年10月20日
クロアチアの記憶「1本の線で描く」
ラツコヴィッチ氏から人物デッサンの指導を受けてから、私は木炭の代わりに筆ペンを持って授業に参加するようになりました。
日本を出発する際に購入した筆ペンが役立ったのを喜び、対象の動きや形を一つの線に凝縮して描くことの大切さを実感しました。
そんな私を教授や学生は、けげんそうに眺めていました。
posted by ラツコヴィッチ・アート・ジャパン at 14:24|
クロアチア
2019年10月18日
クロアチアの記憶「ラツコヴィッチ氏からのアドバイス」
1988年の10月からザグレブ芸術大学での授業が始まりました。朝の素描の授業には必ず出席し、20年ぶりに木炭を握りました。モデルさんは女性の時もありましたが、ほとんどが骨格のしっかりとした男性でした。
週末にはその木炭デッサンを携えてラツコヴィッチ氏のアトリエに通いました。
「人物デッサンは一本の線で描きなさい。」というラツコヴィッチ氏のアドバイスは、その後の私の人物画の基本になりました。
posted by ラツコヴィッチ・アート・ジャパン at 22:24|
クロアチア
2019年10月11日
クロアチアの記憶「トルココーヒーと占い」
クロアチアのカフェではエスプレッソがお馴染みですが、家庭では粉末状のコーヒーを専用の鍋で沸かして作るトルココーヒーが愛飲されています。
砂糖入りの熱湯にコーヒーの粉を入れ、泡が噴きこぼれそうになったら、少量の水を足して蓋をします。それぞれの分量や作り方は家ごとに違っていて、私の入れ方はラツコヴィッチ氏のアトリエの隣に住んでいたマリアさんから習ったものです。
コーヒーを味わった後のもう一つの楽しみは、逆さにしておいたカップの底に残る粉の形で占いをすることです。
posted by ラツコヴィッチ・アート・ジャパン at 10:35|
クロアチア
2019年10月07日
クロアチアの記憶「焼き栗」
ザグレブっ子たちの冬の楽しみの一つは「焼き栗」です。栗は日本より小ぶりですが、香ばしく甘さも十分でした。私達の住んでいたパパガイケ(オウム)団地にも11月に入ると毎日屋台が出て、息子たちは下校するとすぐに屋台に向かいました。
屋台のおじさんは値段に応じて違う入れ物で量を測り、手早く丸めた紙袋に焼き立ての栗を入れてくれました。
posted by ラツコヴィッチ・アート・ジャパン at 23:48|
クロアチア
2019年09月30日
クロアチアの記憶「ザグレブ芸術大学」
ザグレブ芸大には全国からたくさんの生徒が受験し、狭き門を突破するのはほんの一握りです。
私は、1988年秋から研究生として芸大に通い始めました。まず油絵科のヨルダン教授につき、
間もなく彫刻科のスィキリッツア教授の教室に移りました。
芸大の日課は朝のデッサン(3時間)から始まり、午後になるとそれぞれの制作室に向かいます。
私のクラスメイトは3年の男子3名でした。
芸大のクラスメイトと一緒に
posted by ラツコヴィッチ・アート・ジャパン at 16:13|
クロアチア
クロアチアの記憶「語学コース4」
翌年の2月から中級の授業が始まりましたが、内容も進み方も単語数も初級とは比べ物に
ならぬほどレベルが高く、私は1週間で音を上げてしまいました。
大学からの帰り道、こみ上げる涙をこらえながら中級をやめる決心をしました。
そんな私を救ってくれたのは、クロアチア語の教授とザグレブ在住の日本人女性Yさんでした。
特にYさんは、月曜から金曜まで毎日私の予習に付き合い励まし続けてくれました。
卒業試験では、自分が最も得意だった課をくじで引き当て、その時の教授の「やったね。」と
いう笑顔は忘れられません。
posted by ラツコヴィッチ・アート・ジャパン at 16:02|
クロアチア
クロアチアの記憶「語学コース3」
毎日100余りの新出単語を調べ「テープの内容は授業の前に暗記する」というノルマと
格闘しながら、やっと初級をクリアした頃には、何とか電話の相手が言うことが聞き取れる
ようになりました。
覚えたての言葉を駆使してラツコヴィッチ氏のアトリエに電話をしたのは、ちょうど
その頃でした。
posted by ラツコヴィッチ・アート・ジャパン at 15:57|
クロアチア
クロアチアの記憶「語学コース2」
授業は午後だったのですが、息子たちがそれぞれ小学校と幼稚園に行っている間集中して勉強することができました。
小学4年までは基本的に半日授業で、隔週で午前と午後に通学していましたが、両親の仕事の関係でランチを共にできない家庭や、私のような留学生の親を持つ子供たちは長い時間学校にいることができました。10時のおやつや給食もあったので助かりました。
語学の授業が終わると、若い留学生たちに混じってトラムに乗り込み、乗り換えのバス停に向かいます。
トラムを待つ間、その日の授業で覚えたフレーズを使って会話するのが日課となり、1つの言葉を通して様々な国の人と会話が出来るという喜びを味わいました。
語学コースの仲間とミマラ美術館の前で
posted by ラツコヴィッチ・アート・ジャパン at 09:35|
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